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サイパン玉砕戦の狂気と真実

2008年11月09日 21:45

太平洋、北マリアナ諸島の島、サイパン。
20140723サイパン



海の透明度が高く、世界有数の美しい島として知られる。
日本からの観光客も数多く訪れているこの島で、60数年前、5万有余の兵士、民間人の命が失われたことを記憶している人はどれほどいるのだろうか?

この戦いを生き残った、田中徳祐氏の著書「我ら降伏せず」によってこの悲劇を書き起こしてみたい。

昭和19年6月11日午後1時、突然のアメリカ軍による空襲によって始まったサイパン島攻防戦。
当時の戦局はもはや日本に勝機はなく、圧倒的な物量と兵器による米軍の攻撃に対し、日本軍の精神を示す戦いとなっていっていた。

田中大尉の属する河村部隊は、日本兵の抵抗を排し上陸した米軍に決死の夜襲をかけることとなった。
この作戦は戦車隊、砲兵隊と連携して行うことになっていたが、作戦開始時刻になってもどの部隊も攻撃をかけない。
河村部隊は、戦車、自動小銃で重武装した大軍に小銃と銃剣で突撃をかける。


すぐ右横の敵戦車上に日章旗をひるがえしていた冨田兵長が、次の戦車に飛び乗り、砲身に手榴弾を叩きつけて吹き飛ばし、次に天蓋をこじあけ、中に素早く手榴弾を投げ込んだ。
周囲の戦車が、富田兵長目がけて機銃掃射を浴びせかけた。同年兵らしい一人がこれに気づいていち早く「富田、あぶない」と叫んだが、なにしろ阿修羅のごとき状態である。耳に入るわけがない。富田兵長の手足から、激しく血が流れ出している。手榴弾の炸裂音と同時に、銃剣を振るい、内部の敵兵を突き刺したとたん、「ガアーン」という大音響とともに、富田兵長のからだが吹き飛んだ。
富田兵長の行動に、兵士は奮い立った。
閃く白刃、銃剣、火砲、血沫・・・・・・。
もう、この世のこととは思えなかった。屍がつぎつぎと山を築いていく。


兵卒や部隊長クラスは鬼神の働きをしたが、作戦の不徹底、もとより人的物的に大きく劣る戦いに勝利はあり得なかった。
日本軍の部隊長クラスまでは、感動的なほどに勇敢で、精兵であることと、司令官クラスの指揮能力の低さを如実に表わしている。

偶然気を失っていたため、死体と思われ九死に一生を得た田中大尉は、この無謀な作戦に対し怒り心頭し、斎藤陸軍中将にこう報告している。

「河村部隊はオリアイに上陸した突入し全滅。共同すべき左右の両部隊及び砲兵、戦車隊、全然共同なし。突入時刻過ぎ、ついに十七日午前六時を期し、部隊独断戦を開始。全員肉弾となって白兵戦を敢行せり。以後、的確なる命令と、各部隊の密接なる戦闘計画なくば敗戦の連続です」
ここまで一気に口にしたとき、斎藤司令官は、語気を荒げてさえぎった。
「バカ! 的確な命令とは何事だ。命令を何と心得とるか。大元帥閣下の命令なるぞ。軍人は死するは本望だ。兵士は師団長の命令通り動き、死せばよいのだ」
私は引き下がらなかった。
「閣下、我々軍人は命令に従って死せば戦闘に勝てるのですか。尊い生命を惜し気もなく、一片の木の葉か、一塊の小石の如く捨てれば勝てるのですか」


日本軍はこのあとジャングル、洞窟にひそみながら反撃を試みるが、不発に終わり、米軍に追われ、死傷者を重ねながら島を転々とすることになる。

サイパン島には当時二万人の民間人がいたが、彼らの運命も悲惨を極めた。
保護すべき軍組織が崩壊すると、戦闘に巻き込まれるもの、一家心中するもの、集団自決するもの、そしてあのバンザイクリフ(マッピ岬)から投身自殺するものなど、半数近くが命を落とすこととなった。

20140723サイパン島
バンザイクリフ(マッピ岬)

七月九日の最後の組織的戦闘以降、米軍は放送で軍人、民間人の投降を呼びかけたが、多くはこれに応じなかった。
それはもちろん、鬼畜米英と教えられたことや、捕虜になることの不名誉さ、という要因がある。
それに加え、以下の二例も影響があったであろうと思われる。

そこへ(管理人注 米軍が作ったパナデルの飛行場)、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕らわれの身となった。
幼い子供と老人は一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終わったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。
その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。
やがて、次のトラックも、次のトラックも走りだした。
絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかっていった。
・・・・・なんたることをするのだ!小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後一人として生還しなかった)
婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・・・・。米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきなさい・・・・・・。あの投降勧告は一体なんだったのか。
常夏の大空をこがさんばかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。
「おい、もうがまんならん。撃て」
この状況を見ていた私が叫んだ。同時に、吉田軍曹が一発撃った。しかしなんの効果もない。敵は、もはや我々に無頓着である。
残虐な行為は壮絶をきわめた。火から逃れ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばしては火の海に投げ込んでいる。二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。「ギャッ!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまたさきにされ殺されていく・・・・・・。彼らはそれを大声で笑った。不気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。
射撃をやめ、この非道な行為を脳裏に焼きつけた。いまは眼からは一滴の涙も出ず、この恨みをどこまでも生き抜いていつかきっと返さねばならぬと、全身に激しい怒りがみなぎった。

継ぐべき言葉も出ない。
しかしこういう例もある。

洞窟内の住民や兵士の中には、この投降勧告に心がぐらついているものもみうけられる。
さきほどから、子供一人をつれた両親が、片隅でヒソヒソ話していたかと思うと、後方の穴からそっと丘陵へ出ていった。敵の指示する白旗に向かって歩き出す。この一家を海軍の兵士が見つけた。
「バカヤロー、今になって・・・・・・。しかも昼間に投降する奴があるか」
と、どなると同時に、持っていた小銃を構え、撃った。最期を歩いていた父親が射殺され、岩壁の横から、敵戦車群の真っ只中に転落していった。その兵は洞窟から飛び出し、つづいて二発目を母子に向けて撃った。弾は命中した。背にしていた子供を貫通し、母親は倒れた。親子の鮮血が吹き出し、母親はのたうちまわった。

投降を認めないからこその日本軍の勇敢さは、こういう悲劇も生む。

ここには書ききれないほどの凄惨な出来事が数々おき、数え切れないほどの死者を出しながら、それでも最後の一兵まで戦い続ける日本軍。
やがて昭和二十年八月十五日を迎える。
米軍から奪ったライフ誌で日本の敗戦を知った日本兵。
米軍の放送でも日本の降伏が伝えられる。
徹底抗戦の拠りどころを失った日本兵はそれでも降伏、投降を潔しとはせず、米軍に談判を申し込む。
昭和二十年十一月二十四日、投降ではなく停戦の交渉に赴いたのは田中大尉だった。
その時生き残った日本兵、わずか47人。五万余の兵が、である。
それでも対等に交渉する。
早く日本軍のゲリラ活動をやめさせたかった米軍も形だけとはいえ日本軍に敬意を払い、対等に停戦合意を結んだ。
上官の正式武装解除の命令書も届き、サイパンの日本軍はついに降伏する。

思えば、昭和十九年三月三十一日、我々は満洲から上陸した。五万の兵が、敵の一方的な攻撃の前に、なすところなく、ジャングルに、洞窟に、海岸に、消えていった。その兵士や民間人の屍や白骨が、累々と散乱する中を、後ろ髪を引かれる思いで、いままさに別れを告げなければならないところにきた。
みれば朝露に濡れた白骨が、涙を流して語りかけているようである。このまま、ここを立ち去らなければならない非情な運命を、この英霊たちにどうわびたらよいのだろうか、そう思うと、涙がとめどなく流れ、止まらなかった。やがて英霊に別れるときがきた。四十七人の「最後の日本兵」が整列した。
「キオつけ」
私はこれが最後と思うと声に力が入った。静まりかえったジャングルの奥深くまでその声はこだました。英霊に対して慰霊祭がとり行われることになった。しばしの黙祷がつづき、終って弔銃が発射されることになった。
「弾込め」
の号令につづいて
「射ち方用意ッ」
兵たちはキビキビした動作で銃口を空に、斜めに向けた。青い空がどこまでも青く、日はすでに暑い日差しにかわってまぶしかった。
「撃て!」「ドン!」「撃て!」「ドン!」「撃て!」「ドン!」
三発の弔銃が発射された。銃声は朝のしじまを破り、ジャングルを震撼させ、地下に、洞窟に、長恨の悲劇をのせ余韻を残して飛んでいく。全く感無量の、口筆に尽くせぬ数分だった。
慰霊祭を終った兵は、長かったジャングル生活を惜しむかのように、周囲を見渡し、しばし想いにふけった。上官を失い、戦友を失い、日に日に消えていった日本軍隊の末路は、四十七人の兵によって幕をとじようとしている。
下山することになった。式場までは私が指揮をとった。陽光に閃く一刃は、まさに日本帝国陸軍の壊滅のシンボルとなった。住みなれたジャングルに踏み出す軍靴の響きは、力無く崩れ去る日本陸軍の悲劇を、むなしく物語っている。しかし、最後の最後まで、我々は堂々と胸を張って、歩調をとり、銃をかついで、敵のまっただ中に行進をつづけた。一個中隊の敵が、道の両側に隠れて、銃口を向けていた。だが、我々は、軍人としてそれらの銃口を無視して歩いた。兵の中には無視してもしきれない兵がいた。足並みが乱れた。が、私は号令した。
「歩調をとれ!」
力いっぱい叫んだ。ふりむくと兵たちの両眼から、涙がとめどなく流れている。口惜しさ、悲しさ、いろいろあった。が、いまはこうしてだれにも後ろ指をさされることなく、軍人として立派に務めを果たした誇りを胸に式場へと進んでいく。我々は歌った。最後の日本軍歌を「パンダの桜かエリの色、花は吉野に嵐吹く、大和オノコと生まれたら、散兵戦の花と散る」-「歩兵の本領」だった。
まぶしく輝く陽の光の下に、勢揃いした我々を、もの珍しげに、アメリカ軍はみていた。式場には武装したMP二個中隊が、警戒して待ちかまえていた。広瀬兵曹長の持つ日章旗が、潮風にはためき、その白地に赤の日の丸の中には、言い尽せぬ数々の悲劇が描かれているようで感慨深かった。
中央に整列、調印後、直ちに武装解除がおこなわれた。軍刀を渡す自分の心境は、死ぬほどつらかった。


最後まで誇りを失わない日本兵。
しかし、敗残の言い尽せぬ悲哀。
こうしてサイパンの戦いは、昭和二十年十二月一日終わりを告げた。

20140723サイパン停戦


この悲劇、日本人なら忘れてはならない。
もしサイパンに行くことがあったら、その地に踏み出したとき、この事実に思いを馳せ、手を合わしてほしい。
遠い南洋の地に祖国のために果てた英霊と民間人のために。


参考文献
我ら降伏せず ―サイパン玉砕戦の狂気と真実―
田中徳祐
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