2008年11月02日 16:58
地中海のほぼ中央、イタリア半島の南にたたずむ、淡路島の半分ほどの島「マルタ」
日本人とは縁が薄いと思われるこの地に、ある碑が建っている。
「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」と刻まれた碑が。

イギリス、フランス、ロシア、イタリア等の連合国と、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマントルコ等の中央同盟国が争った第一次世界大戦。
日本は日英同盟に基づくイギリス政府からの参戦要請により、連合国側に立って参戦した。
当時ドイツのアジア太平洋の拠点「青島」、及びマリアナ諸島などの南洋諸島を日本は犠牲を払って攻略した。
一方ヨーロッパ戦線では血みどろの激戦が繰り広げられており、日本は対連合国への輸出で経済が活況を呈していた。
この状況を知った連合国、とくにイギリスは日本だけがアジア太平洋で権益を広げ、また貿易で利益を得ていることに不満が高まっていった。
そこでイギリス政府は日本に対し、地中海の輸送船団を護衛する艦隊の派遣を要請した。
ドイツ、オーストリアはUボートを用い、通商破壊作戦を行っていたため、連合国側の被害は甚大だった。
これに対して日本艦隊を当てようということだが、要するに「日本も血を流せ!」という心理が濃厚だった。
それ位、対潜技術の未発達だった当時、Uボートに立ち向かうという事は死を意味することだったのだ。
いわば血を差し出すために日本政府は第二特務艦隊を編成し、遠路はるばる地中海まで派遣することになった。
佐藤皐蔵少将以下最大18隻の駆逐艦を主とする艦隊が1917年から約1年半、日本を遠く離れた地中海でUボートとの戦闘、輸送船の護衛、救助に、真摯に、勇敢に、けなげに取り組んだ。
護送した艦船数、実に788隻、その人員約70万人、戦闘34回、うち攻撃成功13回。
その数もさることながら、日本帝国海軍の姿勢、精神、操艦技術などがマルタの、イギリスの、連合国各国の心を打った。
そのなかでも特筆すべきエピソードを紹介したい。
1917年5月4日早朝、駆逐艦「松」と「榊」は、雷撃を受け沈没する兵員約3千人他を乗せた英国客船トランシルヴァニアから、Uボートのとの戦闘を繰り広げながら、約3000人以上を救出した。
Uボートから自らが攻撃される危険や、もともと駆逐艦自体が小さな船であるため、多数の救助をすることは困難とされていた。
そんな常識を打ち破っての身を挺しての救助に、その直後帰港したイタリア・サヴォナでは町を挙げての歓待を受け、乗務員は英雄となった。
この奇跡的救助は、英国議会でもロバート・セシル卿によって報告され、感極まった議員が「バンザイ」と日本語で叫び、大英帝国はじまって以来のすべての議員によるバンザイ三唱という驚くべき光景まで生み出したのだ。
1918年3月31日夜、兵員437名を乗せた仏輸送船「ラ・ロアール」が雷撃を受けた。
護衛の任についていた「檜」「柳」は夜陰の中、なんと435名を救出したのだ。
被害は2名、奇跡の救助活動と言っていい。
しかも完全には沈まなかった「ラ・ロアール」を曳航して、わずか数ノットでもとのアレキサンドリアに引き返した。
もちろんUボートに襲われる危険を顧ずである。
第1次大戦の戦況にともない、北アフリカ、中東から20万の兵員をヨーロッパに輸送する必要が生じた。
この輸送が成功しなければ、連合国側の勝利はおそらくないであろうことが予想される。
Uボートも全力で阻止に来るであろうこの大作戦に第二特務艦隊ももちろん参加した。
結果から言えばこの作戦は大成功に終わり、第一次世界大戦の趨勢を決めたともいえる。
その作戦の中で、英輸送船「パンクラス」が雷撃を受け自力航行できなくなった。
護衛の任に就いていた「樫」「桃」は、Uボートの必要な追跡を3日3晩不眠不休で警戒しながら時には戦闘し、3000名以上が乗り込んでいる「パンクラス」を曳航してマルタまで届けた。
この話を入港前に聞いたマルタの人々は、数限りない日の丸とユニオンジャックの旗を振り、出迎えてくれたという。
これら幾多の護衛任務を遂行していくうちに、いつしか彼らは「地中海の守護神」とまで呼ばれるようになった。
日本の護衛でないと出港ないという輸送船の船長まで現れた。
これらの任務の中で尊い犠牲も払わねばならなかった。
任務中の「榊」がUボートの雷撃を受け大破、59名が帰らぬ人となった。
他の戦闘も併せて78名がその命を落とし、マルタの英国海軍墓地に葬られた。
これが冒頭に紹介した「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」と刻まれた碑である。
大戦終了後、各国を表敬訪問した彼らは、ベルギー、イギリス、フランスから勲章を贈られている。
マルタにある碑はその後、第二次次世界大戦でドイツの空襲を受け破損したりもしたが、外務省の手により20世紀末補修され、今も変わらずその姿をとどめている。
ただ、とどまっていないのは日本人自身の記憶。
日本を、世界に冠たる国に押し上げようと誠心誠意努力した先人の功績を後世に伝えないこの国のために、いったい誰が汗をかくというのだ?
我々は決して彼らを忘れてはならない。
遠い地中海で奮闘し、人々の信頼を勝ち取り、英雄とまで呼ばれた彼ら「大日本帝国第二特務艦隊」を。
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参考文献
日本人とは縁が薄いと思われるこの地に、ある碑が建っている。
「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」と刻まれた碑が。

イギリス、フランス、ロシア、イタリア等の連合国と、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマントルコ等の中央同盟国が争った第一次世界大戦。
日本は日英同盟に基づくイギリス政府からの参戦要請により、連合国側に立って参戦した。
当時ドイツのアジア太平洋の拠点「青島」、及びマリアナ諸島などの南洋諸島を日本は犠牲を払って攻略した。
一方ヨーロッパ戦線では血みどろの激戦が繰り広げられており、日本は対連合国への輸出で経済が活況を呈していた。
この状況を知った連合国、とくにイギリスは日本だけがアジア太平洋で権益を広げ、また貿易で利益を得ていることに不満が高まっていった。
そこでイギリス政府は日本に対し、地中海の輸送船団を護衛する艦隊の派遣を要請した。
ドイツ、オーストリアはUボートを用い、通商破壊作戦を行っていたため、連合国側の被害は甚大だった。
これに対して日本艦隊を当てようということだが、要するに「日本も血を流せ!」という心理が濃厚だった。
それ位、対潜技術の未発達だった当時、Uボートに立ち向かうという事は死を意味することだったのだ。
いわば血を差し出すために日本政府は第二特務艦隊を編成し、遠路はるばる地中海まで派遣することになった。
佐藤皐蔵少将以下最大18隻の駆逐艦を主とする艦隊が1917年から約1年半、日本を遠く離れた地中海でUボートとの戦闘、輸送船の護衛、救助に、真摯に、勇敢に、けなげに取り組んだ。
護送した艦船数、実に788隻、その人員約70万人、戦闘34回、うち攻撃成功13回。
その数もさることながら、日本帝国海軍の姿勢、精神、操艦技術などがマルタの、イギリスの、連合国各国の心を打った。
そのなかでも特筆すべきエピソードを紹介したい。
1917年5月4日早朝、駆逐艦「松」と「榊」は、雷撃を受け沈没する兵員約3千人他を乗せた英国客船トランシルヴァニアから、Uボートのとの戦闘を繰り広げながら、約3000人以上を救出した。
Uボートから自らが攻撃される危険や、もともと駆逐艦自体が小さな船であるため、多数の救助をすることは困難とされていた。
そんな常識を打ち破っての身を挺しての救助に、その直後帰港したイタリア・サヴォナでは町を挙げての歓待を受け、乗務員は英雄となった。
この奇跡的救助は、英国議会でもロバート・セシル卿によって報告され、感極まった議員が「バンザイ」と日本語で叫び、大英帝国はじまって以来のすべての議員によるバンザイ三唱という驚くべき光景まで生み出したのだ。
1918年3月31日夜、兵員437名を乗せた仏輸送船「ラ・ロアール」が雷撃を受けた。
護衛の任についていた「檜」「柳」は夜陰の中、なんと435名を救出したのだ。
被害は2名、奇跡の救助活動と言っていい。
しかも完全には沈まなかった「ラ・ロアール」を曳航して、わずか数ノットでもとのアレキサンドリアに引き返した。
もちろんUボートに襲われる危険を顧ずである。
第1次大戦の戦況にともない、北アフリカ、中東から20万の兵員をヨーロッパに輸送する必要が生じた。
この輸送が成功しなければ、連合国側の勝利はおそらくないであろうことが予想される。
Uボートも全力で阻止に来るであろうこの大作戦に第二特務艦隊ももちろん参加した。
結果から言えばこの作戦は大成功に終わり、第一次世界大戦の趨勢を決めたともいえる。
その作戦の中で、英輸送船「パンクラス」が雷撃を受け自力航行できなくなった。
護衛の任に就いていた「樫」「桃」は、Uボートの必要な追跡を3日3晩不眠不休で警戒しながら時には戦闘し、3000名以上が乗り込んでいる「パンクラス」を曳航してマルタまで届けた。
この話を入港前に聞いたマルタの人々は、数限りない日の丸とユニオンジャックの旗を振り、出迎えてくれたという。
これら幾多の護衛任務を遂行していくうちに、いつしか彼らは「地中海の守護神」とまで呼ばれるようになった。
日本の護衛でないと出港ないという輸送船の船長まで現れた。
これらの任務の中で尊い犠牲も払わねばならなかった。
任務中の「榊」がUボートの雷撃を受け大破、59名が帰らぬ人となった。

他の戦闘も併せて78名がその命を落とし、マルタの英国海軍墓地に葬られた。
これが冒頭に紹介した「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」と刻まれた碑である。
大戦終了後、各国を表敬訪問した彼らは、ベルギー、イギリス、フランスから勲章を贈られている。
マルタにある碑はその後、第二次次世界大戦でドイツの空襲を受け破損したりもしたが、外務省の手により20世紀末補修され、今も変わらずその姿をとどめている。
ただ、とどまっていないのは日本人自身の記憶。
日本を、世界に冠たる国に押し上げようと誠心誠意努力した先人の功績を後世に伝えないこの国のために、いったい誰が汗をかくというのだ?
我々は決して彼らを忘れてはならない。
遠い地中海で奮闘し、人々の信頼を勝ち取り、英雄とまで呼ばれた彼ら「大日本帝国第二特務艦隊」を。
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参考文献
マルタの碑―日本海軍地中海を制す (祥伝社文庫)
posted with amazlet at 09.11.28
秋月 達郎
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コメント
八目山人 | URL | rId1tC1Q
素晴らしい話です。
日本は後方支援として海軍を出し、このように大和魂を見せつけました。其れによってイギリス国会において感謝決議をされました。
しかし陸軍は一旦出すと大隈内閣は決定しましたが、野党の反対により見送りになりました。惜しい事をしました。もし陸軍もヨーロッパに出征し、死を恐れない日本軍の戦いを見せつけたならば、その後の歴史は変わっていたと思います。
C.W.ニコルさんが、この話を小説に書くと言っておられましたが、どう成ったのでしょう。
( 2008年11月03日 12:09 [編集] )
グリッティ | URL | l7H4TccY
八目山人さん
コメントありがとうございます。
>もし陸軍もヨーロッパに出征し、死を恐れない日本軍の戦いを見せつけたならば、その後の歴史は変わっていたと思います。
そうですよね。陸軍はヨーロッパではなくシベリアに出兵して、得るところなく、犠牲を増やしただけですから。
>C.W.ニコルさんが、この話を小説に書くと言っておられましたが、どう成ったのでしょう。
ニコルさんは「特務艦隊」と言う本を出版されていますよ。私は読んでいませんが。
( 2008年11月03日 19:31 [編集] )
海の果て 竜宮城の使い | URL | -
Re:知られざる帝国海軍の地中海遠征
新聞にて第1次世界大戦、マルタ島での日本海軍の活躍を知り、調べてみようと思い立ちました。
このような世に知られぬ素晴らしい話があったのですね。
涙なくして読めませんでした。
祖父は海軍で横須賀基地におりました。
無口な人でしたが、第1次世界大戦に参戦し、酔うと母に「マルセイユが、、、」などと話をしていたそうです。
どのような艦船に乗船していたのか、今では知る由もございませんが、その昔祖父もまた日本の名誉と世界での地位向上に功績を果たしたのだな、と感銘を受けました。
新聞がこの話題を取り上げてくれ、本当に良かったな、と思いました。
もっともっと日本でも知られるべきだと思います。
( 2014年07月22日 12:05 [編集] )
グリッティ | URL | l7H4TccY
海の果て 竜宮城の使い様
コメントありがとうございます。
新聞で取り上げられたんですね。
それは読んでみたいです。
おじいさんも駆逐艦に乗船して地中海まで行かれたのですね。
それはすごいことです。最敬礼です。
軍というものを否定的に捉えるため、このような話ですら埋もれていってしまい、日の目を見なくなっていく。
これはおかしいです。
例えばこの話なんかもそうです。
「世界で最も尊敬される日本人潜水艇長」
http://andreagritti.blog112.fc2.com/blog-entry-1494.html
日本人が知るべき話はもっともっとありますよ。
( 2014年07月22日 12:51 [編集] )
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