真の武士道1(今村将軍とインドネシア)

2007年11月17日 23:52

「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」

武士道を現す言葉としてよく引用される一文です。

この言葉を体現する帝国陸軍大将 今村均氏の知られざる逸話を紹介したい。

「大東亜の理想」

大東亜戦争当初、インドネシアのオランダ軍を駆逐し、石油などの資源地帯の確保を目指した第16軍の司令官だった今村中将(当時)は、わずか9日間でその目的を果たした。その後、インドネシアに軍政を布いた。その軍政の特徴は下記の布告第1号に良く表れている。

1. 日本人とインドネシア人は同祖同族である
2. 日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
3 同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する

大東亜共栄圏の理想そのものといえる今村将軍の軍政にインドネシアの人々は親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念したといわれる。視察に来た軍務局長・武藤章中将の言葉を借りると「来て見れば、白人の老夫婦は夕方の公園を散歩している。若いアベックはカフェーのテーブルで囁いている。バタビアの中心街は銀座の比ではない、獄舎の将校たちにレクリエーションの時間が与えられ、囚房の深夜にも電燈の火が煌々と流れていた。」という占領下を思わせないものであった。しかし、この軍政が手ぬるいと非難するのが当時の陸軍の空気である。軍政改変を迫られた今村将軍は「天皇の御允裁(許可)を得た改変なら服するが、陸軍省の感覚だけで変更を命じるなら、免職されるまで服従しない。これが自分の信念である。しばらく実績を見て改めて命令を待とう。」といってはねつけたのである。このときに育んだインドネシアの人々との交流、信頼関係が後に今村将軍自身に返ってくる。

「インドネシアの友情」

戦後今村将軍は、インドネシア統治に関する責を理由にオランダ軍よって刑務所に抑留された。その今村将軍に食事を運んできたインドネシアの人がこう言ったという。「日本時代の最高指揮官がここにはいったことを、みんなとても喜んでいます。それは今夜7時に歌であなたに伝わるでしょう。」そして7時になると周囲から大合唱が始まった。その歌は今村将軍自身が日本とインドネシアの友好のため公募した日本語とインドネシア語で歌う「八重潮」であった。獄中の今村将軍は涙したという。

オランダは戦犯裁判において連合国中で最も多い226人の日本人を処刑した、もっとも人種的偏見の強い国だ。現地でも今村将軍の身も悲観的に捉えられていた。当時インドネシア独立軍を率いていたスカルノ(のちのインドネシア初代大統領)は、恩のある今村将軍を助けたいと思い使者を送った。「もし死刑が確定したらインドネシア独立軍があなたを奪還します。」その言葉に対し今村将軍は感謝しながらも「日本の武士道では、そのような方法で生きのびることは不名誉とされている。まして私を救うため、独立軍とオランダ兵が戦火を交え、犠牲者が出るようなことは絶対に避けたい。」と述べたという。
裁判ではインドネシアの人々がかわるがわる今村将軍を擁護する証言をし、また誠実な裁判官にあたったこともあって無罪となった。

インドネシアは日本が敗戦した後、1945年8月17日に独立宣言をするが、その独立宣言書の日付は「17805」と記載されている。17日8月そして05年は日本の皇紀2605年の意なのです。独立宣言書に名を残したスカルノやハッタと日本の関係がどのようなものであったかがよくわかる。そしてその関係は今村将軍から始まっている。

オランダ軍が再度インドネシアを植民地支配しようと戻ってきて、インドネシア独立戦争が勃発し、インドネシアは独立を勝ち取った。これは今村将軍がインドネシアの人々に軍事教練を施し、インドネシア祖国義勇軍(PETA)の設立を許可したことが勝利につながったのである。植民地支配であればインドネシアの人に軍事教練などするわけがない。将来のインドネシア独立を見据えての施策だったのだ。また、軍事教練中は日本人とインドネシアの人々が師弟関係となり精神的つながりができたことも一因で、約2,000名の旧日本兵がインドネシア側に立って戦いインドネシアの地に骨を埋めた。彼らは、ジャカルタにあるカリバタ英雄墓地に独立の英雄として埋葬されている。

つづく

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コメント

  1. ままぞん | URL | yl2HcnkM

    ここで山岡さんの作品に触れることが出来てよかった・・

    武士道を,インドネシアの方々に理解してもらえたこと,後々まで語り継ぎ,独立を勝ち取る力を持てたこと.

    今村将軍も微笑んでいることでしょう.

  2. みなみ | URL | tgc9eSG6

    こんにちは、インドネシアの方々のお話ありがとうございました。
    山岡さんの作品を読んでいなかったので、ここで知ることが出来て嬉しくおもいました。
    「敵兵を救助せよ!」のP23~p24にもこの頃のインドネシアでの日本軍のことが記されています。

    インドネシア政府は、独立の最高功労者として、昭和五十一年八月十二日、元日本軍ジャカルタ武官府長官前田精中尉(鹿児島県出身、海兵四十六期)に対して最高位のナラリア勲章を贈っている。
    一方、昭和二十年九月十九日、スカルノが初代大統領として独立宣言を発した際、警備を受け持つ日本軍第十六軍は、連合軍から「発砲しても集会させるな」と命じられていた。独立を阻止するためであるが、日本軍はこれを無視し、スカルノに独立演説を行わせた。
    当時、第十六軍の参謀をしていた前田中将と同郷の宮本静雄陸軍中佐は、独断で演説を許可した。しかもスカルノを護衛するため彼の隣に座ったのである。
    ~~~~
    インドネシアには、今なお敬慕され続ける日本海軍軍人がもう一人いる。工藤中佐の一期先輩、堀内豊秋大佐である。
    大佐は、昭和十七年一月十一日にメナドに落下傘降下し、現地オランダ軍を制圧した後、善政を敷いた。
    インドネシアには古くから、「白馬にまたがった騎士が天から降りてきて、オランダの制圧から住民を解放してくれる」という言い伝えがあった。
    堀内大佐の落下傘降下は、まさにこれを彷彿させたもので、当時この光景を見た住民は、今でも「人生最高の日であった」と語っている。

    以上「敵兵を救助せよ!」から引用しました。

    インドネシアの英雄記念墓地に埋葬されている日本軍の方々、インドネシアの為に戦い戦死された二千人の方々の当時の行為に日本人として誇りを感じます。
    当時の日本軍の方々の事を忘れずにいてくれるインドネシアの方々は恩を忘れない素晴らしい方々だとも思います。
    どこぞの民族とは大違いですね。>-<
    長いコメントになり、済みません。^^::

  3. グリッティ | URL | -

    ままぞんさん
    コメントありがとうございます。

    山岡荘八先生の太平洋戦争はまさにその時代の息吹を教えてくれます。

    当時の日本人がどれだけ米英に黄色人種だからという理由で頭を抑えられ、憤慨していたか。その怒りが現れたのが真珠湾攻撃だったと思います。

    ただこの記事はメインは「責任 ラバウルの将軍 今村均」なんですけどね。

  4. グリッティ | URL | -

    みなみさん
    コメントありがとうございます。

    こちらこそご紹介ありがとうございます。
    インドネシアのことひとつをとっても良いこともあれば残念ながら悪いこともあります。
    良いことは称え、悪いことは非難すればいいと思います。
    白を黒に塗り替えることも、黒を白と言い張ることもするべきではないと思います。

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