2013年08月14日 12:54
先日、NHK大河ドラマ「八重の桜」で戊辰戦争の一局面、いわゆる「会津戦争」のシーンが放送されていた。
幕府、朝廷にもっとも忠節をつくしながら、“朝敵”“逆賊”の汚名を着せられ、それに抗う会津。
新政府軍に包囲され、援軍もなく、それでもおのが美学の為に死力を尽くす会津の人々。
主人公八重に言わせたこのセリフが、まさに会津の魂を表している。
畏れながら、お殿様は間違っておいでです。
何があっても、お殿様には生きて頂かねばなりませぬ。
私は、何度考えてもわからねえ。
天子様、公方様のために尽くしてきた会津が、なじょして逆賊と言われなければならねえのか。
会津の者なら皆知ってる。
悔しくてたまんねえ。
死んだ皆さまは、会津の誇りを守るために命を使ったのです。
八重の父も弟・三郎も、友人たちも、鉄砲を教えた子らも、会津を守って命を落としていったのです。
どうか、それを無駄にしねえで下さい。
本当は日本中に言いてえ。
会津は逆賊ではねえ。
だけんじょ、それを証明できるのは殿様しかいねえのです。
だから、何があっても生きてくだせえまし。
会津(福島)は、日本の中でも人一倍郷土愛にあふれ、身を捨ててでも郷土の為に尽くすという日本人の美点をより強く持った人たちがいる、美しい土地だと思う。
その会津で、原発事故が起こったのである…
福島出身の人も多数いた福島第一原発の作業員達の苦闘は、彼らの“会津魂”が日本を救ったと言っていい、会津戦争にも匹敵するギリギリの闘いだったのである。
平成23年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生、この瞬間から吉田所長と人々の壮絶な戦いは始まった。
まず驚かされるのが、その判断と実行の早さである。
想定を大きく超える事態が起こっているにもかかわらず、彼らは迅速に判断し、機敏に実行していく。
例えば、吉田所長は津波により全電源が消失した時点ですでに、消防車の派遣を要請しているのである。
電力が無くなった事態ですぐに、消防車で海水を引っ張り原子炉を冷やすしかない、という極めて早い判断を行っている。
また、原子炉建屋傍の最前線でも、原子炉への注水路を作るために、建屋に突入しバルブを人力で開けている。
この判断が少しでも遅れていたら線量が高くなって建屋には入れなくなり、その後の原子炉への注水は出来なくなっていた。
この、プロフェッショナル達の早い判断と実行がなかったら、間違いなく原子炉は爆発し、関東から東日本は人の住めない地域となっていた。
まさに日本の生死を分けた判断と実行だったのだ。
この事実が余りにも知られていないことに驚きと呆れを覚える。
彼らの責任感にも驚嘆せざるを得ない。
事故当時非番だった作業員たちが、地震後の混雑や悪路、その他様々な障害を乗り越えて、続々と原発にやってくるのである。
そこが“死地”であること、それが分からない筈はない。
それでも、家族を置いてでも、彼らは駆け付けた。
それが使命であるかのように。
そして実際の作業に加わっていく。
その作業、注水のため、電源確保のため、ベントのため、彼らは何度も何度も、高線量のなかに突入していく。
線量計や防護服といった装備をしているとは言っても、刻々と線量が上がり、行ってみないとどこまでの線量か分からない中へ突っ込んでいく。
その仕事を譲り合うのではく、奪い合うようにして、である。
なにが彼らをそこまで突き動かすのか、それは仕事や責任というものを越えた、日本人としての信念であったのだろうか。
自分達次第で、日本の命運も決まるということを誰もが感じていたのだから。
吉田所長を初め現場の責任者たちは、死をとうに覚悟していた。
当然のことのように。
その彼らに、「逃げることはできないぞ」と言い放った管直人。
覚悟を決めた人間に対する最大の侮辱だ。
決して許されるものではない。
吉田所長の要請に応じて最初に現れた、陸上自衛隊第六師団第六特科連隊の消防車。
この消防車の注水が原子炉の爆発を止めた。
その後も、各地の自衛隊の消防車やヘリからの注水といった活動を、もはや水素爆発も起こり野外は高線量となってしまった中で、多くの自衛隊員が行い、事態の悪化を押し留めた。
やはり当然のことのように。
ただ混乱させただけの管直人と官邸、調整も指示もできない東電本社、そんな中で文字通り“命をかけて”作業を行い、最悪の事態を避けた吉田所長とプロフェッショナル達。
この図式は太平洋戦争と良く似ている。
70年経っても日本は同じなのだ。
末端の名もなき人々が身を挺して事を行い、上層部は責任逃れをする。
そんな中で吉田所長がその場にいた事、それは神の僥倖のようにも思えるぐらい日本にとっては幸運なことであった。
現場を掌握し、幅広い知識と経験を十二分に発揮して、事故の拡大を防いだ吉田所長。
東電の社員はもとより、協力会社の人達も、彼の為ならと働いたという。
もし彼がそこにいなかったら…
日本の3分の1は人が住めなくなっていてもおかしくはなかった。
先日、闘病の末に亡くなられた吉田所長に、心からご冥福と感謝を申し上げたいと思う。
あなたは日本の恩人です。
新撰組の斎藤一は戊辰戦争で転戦中、京都以来恩のある会津にたどり着いた。
そこで会津の人々と交流するにつれ、会津の為に命をささげる決意をし、土方ら他の者と決別し会津に残ることにする。
会津戦争では最後まで交戦し、藩主松平容保の命でようやく刀を納めたのだった。
会津を訪れた人は、その美しい魂に魅せられるのだろうか。
原発事故との戦いは、会津人と会津に魅せられた人々が、会津と日本を守るために命をかけた戦いであり、まさに「会津魂」が日本を救ったと言っても過言ではないと思う。
八重は言うだろう「会津は逆賊ではねえ。会津は英雄だ」と。
今もまだ、福島第一原発では、事態の収束の為、作業が続いている。
様々なトラブルが今後も起きるだろう。
でも、あの場所で、多くの人が、決死の作業をしてきていることは、間違いのない事実だ。
そのことを一人でも多くの日本人に知ってほしいと思う。
参考文献

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幕府、朝廷にもっとも忠節をつくしながら、“朝敵”“逆賊”の汚名を着せられ、それに抗う会津。
新政府軍に包囲され、援軍もなく、それでもおのが美学の為に死力を尽くす会津の人々。
主人公八重に言わせたこのセリフが、まさに会津の魂を表している。
畏れながら、お殿様は間違っておいでです。
何があっても、お殿様には生きて頂かねばなりませぬ。
私は、何度考えてもわからねえ。
天子様、公方様のために尽くしてきた会津が、なじょして逆賊と言われなければならねえのか。
会津の者なら皆知ってる。
悔しくてたまんねえ。
死んだ皆さまは、会津の誇りを守るために命を使ったのです。
八重の父も弟・三郎も、友人たちも、鉄砲を教えた子らも、会津を守って命を落としていったのです。
どうか、それを無駄にしねえで下さい。
本当は日本中に言いてえ。
会津は逆賊ではねえ。
だけんじょ、それを証明できるのは殿様しかいねえのです。
だから、何があっても生きてくだせえまし。
会津(福島)は、日本の中でも人一倍郷土愛にあふれ、身を捨ててでも郷土の為に尽くすという日本人の美点をより強く持った人たちがいる、美しい土地だと思う。
その会津で、原発事故が起こったのである…
福島出身の人も多数いた福島第一原発の作業員達の苦闘は、彼らの“会津魂”が日本を救ったと言っていい、会津戦争にも匹敵するギリギリの闘いだったのである。
平成23年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生、この瞬間から吉田所長と人々の壮絶な戦いは始まった。

まず驚かされるのが、その判断と実行の早さである。
想定を大きく超える事態が起こっているにもかかわらず、彼らは迅速に判断し、機敏に実行していく。
例えば、吉田所長は津波により全電源が消失した時点ですでに、消防車の派遣を要請しているのである。
電力が無くなった事態ですぐに、消防車で海水を引っ張り原子炉を冷やすしかない、という極めて早い判断を行っている。
また、原子炉建屋傍の最前線でも、原子炉への注水路を作るために、建屋に突入しバルブを人力で開けている。
この判断が少しでも遅れていたら線量が高くなって建屋には入れなくなり、その後の原子炉への注水は出来なくなっていた。
この、プロフェッショナル達の早い判断と実行がなかったら、間違いなく原子炉は爆発し、関東から東日本は人の住めない地域となっていた。
まさに日本の生死を分けた判断と実行だったのだ。
この事実が余りにも知られていないことに驚きと呆れを覚える。
彼らの責任感にも驚嘆せざるを得ない。
事故当時非番だった作業員たちが、地震後の混雑や悪路、その他様々な障害を乗り越えて、続々と原発にやってくるのである。
そこが“死地”であること、それが分からない筈はない。
それでも、家族を置いてでも、彼らは駆け付けた。
それが使命であるかのように。
そして実際の作業に加わっていく。
その作業、注水のため、電源確保のため、ベントのため、彼らは何度も何度も、高線量のなかに突入していく。
線量計や防護服といった装備をしているとは言っても、刻々と線量が上がり、行ってみないとどこまでの線量か分からない中へ突っ込んでいく。
その仕事を譲り合うのではく、奪い合うようにして、である。
なにが彼らをそこまで突き動かすのか、それは仕事や責任というものを越えた、日本人としての信念であったのだろうか。
自分達次第で、日本の命運も決まるということを誰もが感じていたのだから。
吉田所長を初め現場の責任者たちは、死をとうに覚悟していた。
当然のことのように。
その彼らに、「逃げることはできないぞ」と言い放った管直人。
覚悟を決めた人間に対する最大の侮辱だ。
決して許されるものではない。
吉田所長の要請に応じて最初に現れた、陸上自衛隊第六師団第六特科連隊の消防車。
この消防車の注水が原子炉の爆発を止めた。
その後も、各地の自衛隊の消防車やヘリからの注水といった活動を、もはや水素爆発も起こり野外は高線量となってしまった中で、多くの自衛隊員が行い、事態の悪化を押し留めた。
やはり当然のことのように。
ただ混乱させただけの管直人と官邸、調整も指示もできない東電本社、そんな中で文字通り“命をかけて”作業を行い、最悪の事態を避けた吉田所長とプロフェッショナル達。
この図式は太平洋戦争と良く似ている。
70年経っても日本は同じなのだ。
末端の名もなき人々が身を挺して事を行い、上層部は責任逃れをする。
そんな中で吉田所長がその場にいた事、それは神の僥倖のようにも思えるぐらい日本にとっては幸運なことであった。
現場を掌握し、幅広い知識と経験を十二分に発揮して、事故の拡大を防いだ吉田所長。
東電の社員はもとより、協力会社の人達も、彼の為ならと働いたという。
もし彼がそこにいなかったら…
日本の3分の1は人が住めなくなっていてもおかしくはなかった。
先日、闘病の末に亡くなられた吉田所長に、心からご冥福と感謝を申し上げたいと思う。
あなたは日本の恩人です。
新撰組の斎藤一は戊辰戦争で転戦中、京都以来恩のある会津にたどり着いた。
そこで会津の人々と交流するにつれ、会津の為に命をささげる決意をし、土方ら他の者と決別し会津に残ることにする。
会津戦争では最後まで交戦し、藩主松平容保の命でようやく刀を納めたのだった。
会津を訪れた人は、その美しい魂に魅せられるのだろうか。
原発事故との戦いは、会津人と会津に魅せられた人々が、会津と日本を守るために命をかけた戦いであり、まさに「会津魂」が日本を救ったと言っても過言ではないと思う。
八重は言うだろう「会津は逆賊ではねえ。会津は英雄だ」と。
今もまだ、福島第一原発では、事態の収束の為、作業が続いている。
様々なトラブルが今後も起きるだろう。
でも、あの場所で、多くの人が、決死の作業をしてきていることは、間違いのない事実だ。
そのことを一人でも多くの日本人に知ってほしいと思う。
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コメント
女は女らしく美しい日本を守りたい | URL | fYFfjCTQ
帰省している会津の実家で会津魂の記事を、嬉しく何度も読ませて頂いております。
会津の人は悪気はないのに、愛想が悪くて損だと思います。
原発事故は大変残念ですが、地元の人々は静かに受け止め、収束を願っているように感じます。
私は、菅直人が憎くて憎くて今でも気が狂いそうです。震災後に移り住み、原発反対、原発事故で苦しんでいる、などと発信している薄汚い連中も憎くて悔しくてたまりません。
( 2013年08月17日 13:53 [編集] )
グリッティ | URL | l7H4TccY
女は女らしく美しい日本を守りたい様
コメントありがとうございます。
朴訥な感じなんですかね。
人情深い人達が多いように思いますよ。
菅直人編アップして見ました。
よろしければ読んでみてください。
より憎くなるかもしれませんが…
http://andreagritti.blog112.fc2.com/blog-entry-1815.html
( 2013年08月18日 17:09 [編集] )
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