2011年06月23日 18:33
この日が来るたびの思い出す電文がある。
大戦末期の沖縄戦において、海軍陸戦隊の総指揮をとった、大田実中将の最後の電文である。
原文はwikiにもあるので(大田実wiki)もし読まれたことのない人は、是非今日を機会に読んでみて欲しい。
以下はそれの現代語訳である。
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
最後の一節、原文は
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
であり、特に有名である。
沖縄県民の塗炭の苦しみに対して、戦後日本は報いたか?
それは米軍基地が集まっているという図式もあるが、心情的に沖縄県民の気持ちを汲み取ったか、ということである。
大田実中将が送った電文の趣旨を、ほんの一握りでも、多くの日本人が共感し、共有していれば、全く違った世界が拓けていただろう。
それは沖縄に限らず、戦争で命をかけ、戦ったすべての日本人を見捨てた、戦後日本の姿と重なる。
戦争の是非は如何にあれど、身を捨てて国に尽くした人を評価しなければ、敗戦で断絶した日本の精神は復興しない。
あの戦争で殆どの日本人は死力を尽くしたのだ。
そしてそれらの人々の歴史を連綿と繋いでいくのが、全ての日本人の使命なのだ。
今日この日はその思いを新たにする日、私はそう決めている。
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