村上春樹氏のスピーチ

2011年06月11日 12:31

村上春樹氏のスペイン・カタルーニャ国際賞授賞式での受賞スピーチ全文が毎日に載っている。

村上氏が語るのは、東日本大震災と福島原発のこと、戦後日本の歩み。

当代日本の、いや世界文学の巨人とも言うべき氏の言葉は重く、深い。

おそらく震災後の様々な論評の中で一番読み応えがある文章だろう。
日本人なら一度読んでおくべきものだ。

村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(上) 
村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下) 毎日新聞

以下は読んだ上での私の感想です。

村上氏は、生まれながらにして自然災害と向き合ってきた日本人には、「無常」という観念が生まれたと説く。
それはその通りだろう。

そしてその「無常」も長く消えることのない放射能には無力だと、だから日本人はヒロシマ・ナガサキを忘れず、核にNOを叫び続けるべきだったと言う。

その文脈の中で以下の言葉がある。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。


広島の原爆慰霊碑の言葉、これが私は大嫌いだ。
この言葉に表される精神性こそが今回の原発事故も、先の大戦の惨禍も生んだと思っている。

日本人は自然災害に対して「無常」という精神性で対処してきたのは、やむを得ない産物だったのかもしれない。
だが、その「諦観」の精神を、私は愛している。
それに内包される“潔さ”は日本人的精神の極みだと思っている。

しかし、広島の原爆慰霊碑の言葉は、自然災害だけに向けるべき「無常」を“人のなせる技”にまで適用させた産物だ。

我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。

このように、被害者や加害者を曖昧にすることは、何らかの原因があり、直接的な加害者と絶対的な被害者がいる中で、その責任の所在をぼかすことにほかならない。

自然災害なら、加害者は地球としか言い様がないので、追求しても仕方がない、だからこその「無常」なのだが、人が起こしたことは原因と結果がはっきりしているはずだ。

それを日本人はいつも突き詰めようとしない。

かつて、文明が日本人に大きな危害を加えることのない頃、多くの人命が失われるのは自然災害のみで、そこから「無常」の精神は生まれたが、人の起こすことが自然災害並みの被害を起こすようになると、日本人はそれにも「無常」を当てはめるようになった。

それは災害を受け止めるのに、日本人にとって慣れた方法だったが、再発を防ぐという意味では適さない手法だった。
戦争について言えば、日本人はなぜ日清・日露で勝ち、なぜ第2次世界大戦で敗れたのか、本当の意味での検証をしたことがない。
特に敗戦の原因は、全体責任のようなかたちで日本人の中に封じられ、目を背け、今だにあいまいなままだ。
ただ単に、「戦争はよくない」という観念論だけしかない。

原爆を投下されたことも、理由はどうあれ直接的な加害者ははっきりしている。
加害者を責めるとかどうとかいうのではなく、碑文のように曖昧にしておくことは、もう一度同じことを引き起こす(起こされる)土壌を放置したままになり、なんの解決にもなっていない。
ただ責任を全人類に拡散させ、薄めて、各々の負担を軽くしているだけ。

村上氏は福島についても、

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

やはり、責任を拡散させている。

こと、人災に対しては、「無常」では解決にも再発防止にもならない。
原因を突き詰め、責任の所在を明らかにすることこそが、同じ失敗を繰り返さない唯一の方法だ。
そしてそれはヒステリックに政府や東電を攻撃することとも違う、極めて論理的な作業であるべきだ。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

たとえ世界中が嘲笑ったとしても核を使わないエネルギーを追求する、大賛成だ。
ただそれは、核というものを、その危険を、追求したときに出る結論が出発点でなければならないはずだ。
原爆の被害だけではなく、すべての面において核がどういうものか、目を背けていては、本当の意味での命題にはならない。
アレルギーは観念でしかなく、ほかの観念に容易くとって変わられる。
だから原発は安全という観念に負けたんだろう?

我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

ヒューマニティは残り、受け継がれていく。
それと同様にロジックを残し、検証を残し、事実を残すべきだ。

感情や観念に左右されない事実を。

戦争はよくないというイメージ
日本は悪いことをしたというイメージ
原発は安全で安いというイメージ

もうイメージに騙されるのはたくさんだ。
イメージという夢なら見たくはない。

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